葉桜をやってみる

葉桜をやってみる は、荻原永璃・渋木すず・新上達也がときどきひらく集まりの名前。 岸田國士「葉桜」の上演をしようとすることを起点に、演劇や生活、労働、結婚などについて、 もっといいかんじにやる方法を一年ほど模索したりしている。 葉桜の上演時期は未定。ゆたかな副産物を収穫したい。

芽吹くときまで(渋木すず)

荻原さん、新上、こんにちは。
二人の日記があまりにも良すぎたので、さてどうしたものかと考えあぐねていたら書くのが遅くなってしまいました、ごめんなさい。

結局気合を入れ過ぎてよいしょっと書いても長続きがしそうにないので、普通に最近の出来事について書きます。

一昨日かな、ふとお風呂場を掃除したくなって、考えていました。というのも、風呂桶にずっと落ちない汚れがあったのです。水垢でもないようだし、少しべとっとしているし、これは皮脂汚れなのかな、と思っていました。かなり強めにこするとやっとはがれるくらいのもので、通常のお風呂掃除で使っている洗剤ではびくともしないのです。

で、気が付きました。皮脂汚れは、おそらく酸性だ、と。油汚れも酸性の汚れなのだし、お肌と同じ弱酸性、なんてCMが昔ありましたし(これは関係ないのだと思うのですが)。
そして思い出しました。汚れを落とす仕組みというのは、逆の性質をもつ洗剤で中和させることによって成り立つと。家の中のアルカリ性の洗剤を探すと、洗濯洗剤がありました。

持って回った言い方でアレなのですが、結論としては皮脂汚れには洗濯洗剤です。アルカリ性に傾いた洗剤を使ってください。

洗濯洗剤をぬるま湯で溶かして、しばらく風呂桶をつけると、汚れはスポンジでこする程度でするすると落ちました。なんでこんなことに気が付かなかったんだろう。
中学理科の知識が総動員されたような発見でした。

手元にあるスマートフォンで調べるともちろんその効果はよく知られていて、この考察と実験結果がおおむね正しいことが分かりました。
グーグルは簡単に答えを教えてくれますが、この手間のかかる発見の過程は私にとってとても楽しい体験でした。

ということで、最近は「発見してみる」のにハマっています。
最近といっても、これまでの日々は発見だらけですので、より厳密にいうと「『発見』をもっと意識して味わってみる」ということでしょうか。

もう一つ、最近「発見」したことがあります。
先日、「葉桜をやってみる」のDiscordの集まりの時にお二人に話したと思うのですが、それは自分の「消えたさ」「死にたさ」についてでした。これはあくまでも自分の場合の話です、ということを断っておいて、以下に書きます。

さて、お二人は知っての通り、私はいまうつ病の治療中です。
わたしの漠然としたこのモヤモヤは、小学生から、あるいは幼稚園生の頃からあったものだったので、もうかなり長くこの状態とともに生きています。
ここ数年は、幸いにも、私の人生に関わってくれた沢山の人のおかげで、そして自分自身を見つめ直せるようになったこともあり、非常に悪かった状態からは脱しつつありました。

しかし最近、社会情勢や仕事や家庭のさまざまな揺らぎが重なり、それら一つ一つは些細なことでも、いつの間にかぐったりとしている日々が続き、とうとうかなりしんどい状態になっていたのです。
20代のころと違って、ぺしゃんこ一歩手前でそれに気が付けて、なんとか病院に行って薬を試したり、とにかく寝たりしたことによって、今は波はあるものの少しずつ回復してきています。

そんなこんなで過ごしていると、医者から認知行動療法の話も出ていたのも手伝って、ふと今の自分の「死にたさ」についてよくよく考えてみようと思い至りました。

幼少期~20代くらいまでの「死にたい」は、現実のつらさや悲しさ、抱えきれない痛み、自分はここにいてはいけないような焦燥感に対しての「死にたい」でした。しかし、今のしんどさは、どうやらそれとは違うようなのです。

よくよく自分の脳内と話して、衝動的に襲ってくる死にたさが、いつ訪れるのか考えてみました。そしてこの死にたさを分解してみると、これは「恥ずかしい」ということのようでした。
びっくりしました。私は死にたいのではなく、恥ずかしくって消えたいだけだったのか!

過去にしてしまった自分のひどいこと・情けないことを思い出す→(恥ずかしい)→死にたい!
という、なんともまあ一直線な思考だったのです。この「(恥ずかしい)」の部分をすっ飛ばして、自動的に「死にたい!」に移動していたことにやっと気が付きました。
このくらいの速さが我が家のWifi回線にもあればいいのですが、思考はこのように速くてもあまり良くないように思います。
「思考の癖」とか、「認知のゆがみ」とか、いまいちピンと来ていなかったものが実感できた瞬間でした。

それからは、とっさにいつもの死にたさが襲ってきても、その死にたさを慌てず咀嚼して、恥ずかしさや、その時の感情を受け止めようとしています。私、恥ずかしいことしたな。酷かったな、と。どうしたら今後もう二度と酷いことをしなくて済むか、なにか対策はあるか、何を学べばいいか、そういう方向にゆっくりと思考を移すようになりました。これが「反省」や「後悔」なのでしょう。

ゆっくり考えることは楽ではなく、しんどいですが、このことに気が付いてからここ数週間、劇的に私の死にたさは薄らいでいます。気分には波があると思うのであまり過信はしていませんが、とにかく、自分の考え方に、もう一つ別の道が現れたようで、驚いています。
(何度も書くようですが、これは私の、回復しつつある今の状況においてなので、くれぐれもこのように深く考えてみることが万人に良い、ということではないのをご承知おきください。)

お二人の日記を読んで、いろいろなことを考えました。いろいろなこと、というのは、主に「場」や、「ことば」、「発見」みたいなもののことです。

30歳を過ぎて段々と生きやすくなってきているのは、やっぱり場があることと、ことばがあること、それによって発見があることのおかげかなと思っています。

病院だったり、友達と遊ぶことだったり、この「葉桜をやってみる」みたいな楽しい試行錯誤の場だったり、川だったり。今住んでいるところには、好きな「場」が多いです。
好きなことばを唱えたり、友達や他者のことばに影響を受けたりして、ことばをつかって思考して、自分の考え方や、過去のとらえ方自体を変えるようにもなってきました。

こうした「場」や「ことば」は、知らず知らずのうちに私の中の「発見の芽」になってくれていて、然るべき時間が流れると、ある日そっと芽吹くものなのかもしれないな、と思います。
私が演劇を好きなのも、きっとその発見の芽をたくさん持ち帰ることができるからでしょう。

この交換日記によっても、すでに私の中で多くの「発見の芽」が育っている予感がしています。

昨今の状況でリアルな場にも行きづらく、交流もしづらい今、このような「場」と、二人の「ことば」があることは、私にとってとても幸せなことです。

この場がどこに向かっていき、ことばがどのように交わされるのか。ワクワクしますね。
次の日記も楽しみにしています。
それでは。