葉桜をやってみる

葉桜をやってみる は、荻原永璃・渋木すず・新上達也がときどきひらく集まりの名前。 岸田國士「葉桜」の上演をしようとすることを起点に、演劇や生活、労働、結婚などについて、 もっといいかんじにやる方法を一年ほど模索したりしている。 葉桜の上演時期は未定。ゆたかな副産物を収穫したい。

演劇をしに行く(荻原永璃)

新上くん、前回はすばらしい記事をありがとう。
交換するに足るだけの言葉をわたしは持ち合わせているか、これは大変なことになったぞと若干焦っています。

短歌のこと、わたしは少し呪文のように思っていたのですごくしっくりきた。
そして今まで読んだ歌たちの中のいくつか、わたしにとっても愛唱するものたちがあることも思い出します。ふと歩いているときに連想からそれらのことばたちが浮かび、その歌からこれを読んだ、あるいは同じように思い出すだろう誰かのことを少しだけ思う。
その、ちょっと遠いけど、たしかにある感じを好きです。
そういう他人の存在をわたしは愛していて、だから演劇をやり続けているのだと思っている。

今日はこれから演劇をしに行くので、そのことを書きます。

近所の劇場が最大1日、自由に使えるようになるという知らせを先月知って、電光石火の勢いで問い合わせをした。何をするかは一切決めてなかったし、だれとやるかもわからなかったけど、とにかくある時間をわたしは得ることができた。
今日、14時から22時まで、わたしは演劇をすることができる。

このコロナ流行下、コロナ禍の渦中において、わたしは己に対して対面での製作と上演を禁じた。他者と集まること自体がある種の加害性を帯びてしまった中で、これまでどおりの演劇を続けることは不可能であったし、やりたくなかった。より良く生きるための演劇を標榜する身として、何の手立てもなく、続けることは自身に対する矛盾だった(それらへの足掻きのひとつが、この葉桜をやってみるでもあるわけですが今日は割愛)。

疫病の流行に対して、人が集まらないことはどうしたって有効だろう。ただその生活の中で倦み、失われていくものに対して演劇は必要だ。
たしかにそこに、わたしでない誰かがいて、そのひととなにかを分け合えるということ。
なによりも圧倒的な、人間のからだ、声、ここにいる、そういった情報たち。

手探りから始まった二年間のなかで、すこしだけ安全にわたしたちは集まれるようになりつつある、と最近は思っている。その限られた安全の中で、わたしは劇場にあつまること、演劇をやってみることに手を伸ばしてみようとしている。

演劇をするのはこわい。ひさしぶりなのできちんとできるかも怖いし、他人に迷惑をかけないかも、うっかりひどいことをやらかしはしないかも(何しろわたしは演出を担うので、パワーバランスには人一倍敏感である必要がある)、テキストや俳優に対して適切に向き合えるかも、もうなにもかも怖い。今日という時間を溝に捨て、また居合わせた人びとに捨てさせることにならないか。

書いてみて、漠然とした恐怖が形になり、大したことじゃないなと思えてきた。自分がうまくできないかもしれないという不安は大きいが、それは重要なことではない。恐ろしいのは、他人という存在であり、その恐怖はそれだけ尊くて大切であるがゆえなのだから、喜ばしいことでもあるのだ。

何をして遊ぼうかずっと悩んでいる。楽しみにしている。今日はわたしの他に3人の俳優が来る。いずれも素晴らしい人達だ。きちんと顔を合わせるのは数年ぶり、演劇をするものこうなってからははじめて。
今日までどうしていたか、どんなふうに生きて、ここまでたどりついたか。
今何をしたいか、何を交換したいか、ここでどうありたいか、あるいはいつかたどり着きたいものたちのこと。

あまりにも長過ぎる、果ての見えないあつまれなさに対して、それでもその先を見つめ続け手を動かし続けられるようでありたい。
今日のコンセプトの一つはだから、楽屋(清水邦夫)です。あるいはそこで扱われている三人姉妹(チェーホフ)かもしれない。
このことはずっと考えている。

長い長い夜、終わりなき稽古、そうして生きていかなければならない。
生きて、再び喜びの日を待つ。

どうなるかわからないけれど、全力で今日という機会を遊び倒そうと思っています。
真剣に楽しむ。眼の前にいるあなたのことを喜び、今ここにいない、いつか会えるかもしれないだれかに声を投げかける。
とっても楽しみにしています。よかったら遊びに来てください。今日でも、いつかでも。
また会いましょう。